12 、戦後の日本の小銃

1945年8月終戦直後から、米軍は日本軍の武装解除にはあまり手間を掛けなかった。日本本土や朝鮮半島では日本軍組織が機能していたので、日本軍にやらせた。朝鮮半島南では米軍は大きな失敗をした。それは大規模な駐留をしなかったからだ。そのために4年半後に北の侵攻を受け、民間人を含め200万人が犠牲になった朝鮮戦争が勃発した。その事象はそれから40年間にも及ぶ「東西冷戦」の始まりだった。米ソは核武装化し、ベトナム戦争に続く。
そのために日本の軍備、軍需産業を徹底的に壊滅させる方針であった米国にも
急速な方針変化が起こった。それが、「警察予備隊」から「保安隊」そして「自衛隊」への流れだ。
そのために、日本の兵器史では1、供与兵器の時代 2、自国開発兵器の時代と続く。小火器館ではその種の兵器の展示を行っている。
小銃(機関銃はその項参照)では以下のようになる。中には開発過程のもの、
採用にならなかったものなど珍しい実物例がある。

1、 供与兵器の時代
GHQは自らの方針を変えて、昭和25年(1950)8月10日に、駐日アメリカ軍の朝鮮半島侵攻のための移動を機に75000人規模の日本人による警察予備隊を編成し、軍事訓練、今は死語となったが、「再軍備」に取り掛かった。


西ドイツでも同じようなことをした。冷戦は勝戦国アメリカにも大きな脅威になったのだ。日本でもドイツでも志願した兵士は元帝国陸海軍の若者であり、特に戦車兵、操縦士などはすでの一人前の兵士であった。問題は追放となっていた士官であったそうだ。韓国軍は後に大統領になった李氏のように満州で日本軍士官として教育を受けたものが機能したので、日本でも仕方なく追放を解き、旧将校も採用した。

バズーカ隊とM26戦車 数百両きた
10月には保安隊と改名して警察組織から独立し今の自衛隊の前身となった。
この時の兵器はM-26戦車、ロケット砲、小火器、多くはアメリカから供給されてもので、これらを「供与兵器」と呼んでいる。小銃では韓国軍に日本の九九式小銃を30.06弾用に改造し、三十年式銃剣とともに装備させ、それらは保安隊、後の自衛隊にも残った。赤羽補給所に保管されていたものだったそうだ。

上から、スプリングフィールド1903狙撃用、M-1ガーランド半自動歩兵用、このふたつは共通の弾薬30.06を使った。
下はM-1カービン7.62㎜、将校、車両兵、通信兵用、この形は全自動。
M-1ガーランド小銃を使った人たちの感想は、「重かった、反動が大きかった」と言うものだった。これらの小銃は保安隊の規模からすると計数万挺の単位で使われただろう。保安隊で九九式小銃がどの程度使用されたかは不明であるが、
学生の時、昭和40年代初頭、富士、神町駐屯地などの衛兵は九九式を保持していた。

2、 初期開発兵器
① 64式小銃
供与兵器は元から中古品であり、昭和30年代半ばより
国産小銃の開発が進んだ。豊和工業に発注されて、口径7.62㎜、全長990㎜、銃身長4.4㎏、20発箱型弾倉を使用し、2脚を備えた

「64式」が昭和39年、制定された。 64式小銃木製銃床と下は折りたたみ
銃床型。生産数が少なかったので高額なものについた。

 

② 89式小銃
上は1963年アーマライトが開発したAR-18 5.56㎜、豊和で若干数がライセンス生産された。全長940㎜、重量3.5kg 弾倉箱型20、30発
下は平成元年(1989)に制定された89式小銃、現在の日本の主力小火器である。部品数を少なく、新素材を使い、軽量化し、3通りの発射方式がある。
口径、5.56㎜、全長920㎜、銃身長420㎜、弾倉箱型20、30発。

日本製アーマライトAR-18、世界のマニア垂涎の的だろう。

89式小銃各種、日本にどれくらいの小銃が必要か?難しい問題だが、近隣諸国の有事を考えると、武装難民対策、施設警備、最低数十万挺は必要だろう。
現在、89式が正式装備で、64式が補助装備をしても推定その半分くらいしかないだろう。89式は分隊軽機関銃ミニミと同じNATO弾を使う。以上